The Way We Were

2006年12月10日 (日)

The Way We Were♪

「The Way We Were」シリーズも第18話を数え、ネタも尽きたので、最後に、バーブラ・ストライザンドの歌でヒットした「The Way We Were」という曲の詩で終わりにしたいと思います。

また、何か思い出したら追加するかもしれません。

Memories, light the corners of my mind

Misty watercolor memories

Of the way we were

思い出が、私の心を隅々まで照らし出す

かすんだ水彩画のような

あの頃の僕らの思い出

          

Scattered pictures of the smiles we left behimd

Smiles we gave to one onother

For the way we were

散らばった写真には、そこに残して来た笑顔が溢れている

互いに交わした笑顔の数々

僕らが僕らであるために

          

Can it be that it was all so simple then

Or has time rewritten every line

If we had the chance to do it all again

Tell me, would we, could we

あの頃は全てが単純だったのかな?

それとも、時間が全てを書き換えてしまったのかな?

もしも、もう一度あの頃をやり直すチャンスがあるとしたら

どうする? やってみる? そんなことできる?

          

Memories may be beautiful and yet

What's too painful to remember

We simply choose to forget

So it's the laughter we will remember

Whenever we remember the way we were

The way we were

思い出は美しいかもしれないけど、でも、

思い出すことは辛いことでもある

それで、つい忘れることを選んでしまう

だから、あの頃の僕たちを思い出すときには

いつも笑い声を思い出す

          

The way we were

ああ、あの頃の僕たち・・・

※この曲は、映画『追憶』のテーマで、主役を演じるバーブラ・ストライザンドとロバート・レッドフォードの恋物語の主題歌なので、本来、男女2人のことを歌った詩なのでしょうが、勝手に幼少の頃の思い出風に訳してみました。

原詩を作られたバーグマン夫妻、ごめんなさい。。。

追憶 Music 追憶

アーティスト:バーブラ・ストライサンド
販売元:ソニーミュージックエンタテインメント
発売日:2002/06/05
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2006年12月 6日 (水)

ナイス、勘違い!

「The Way We Were」シリーズ第18話は、小4の時のお話です。

小4のときのF先生は、授業中ふざけてみんなに迷惑をかけるような生徒に対して、それがあまりにも度を越した場合には、その児童の席を最前列より更に前に移動させ、1週間くらいそこに座らせるといった罰を与えてました。

ほとんど、教壇の真横で授業を受ける形になります。

例によって、授業中であろうとジッとしていられない私は、1年間のうちに数回、その特等席で授業を受けさせて頂くことになりました。

どうしてだか隣の席のヤツに、ついついチョッカイを出してしまうんですよね。

その罰のお世話になるのも3度目くらいの頃だったでしょうか。

特等席に座り始めて3日経ったところで、F先生が私を呼んで言いました。

「この罰は、1週間という約束だけど、明日は参観日なので、明日だけ本来の席に戻ってもええよ。

お母さんに恥をかかせるのも情けないじゃろうから。

私も本当は、最初に決めた決まりに例外を許すのはポリシーに反するけど、参観日のことはうっかりしとった。

まぁ特例じゃ!」

私は、自分が悪いから罰を受けているという自覚があった訳だし、特例なんてみっともない措置を受け入れるのは男らしくないと思い、せっかくの先生のご好意を受け入れず、生意気にも言いました。

「決まりは決まりじゃけぇ。 参観日じゃからって甘えとれん!」

翌日、私は恥かしさで顔から火の出る思いをしながら参観授業を耐え抜きました。

「お母さん、恥かかしてスマン!」

と何度も心で唱えながら・・・。

恐る恐る帰宅した私に、なんとお袋は、

「さざまる、私しゃあ、今日は鼻が高かったでよ。

あんな特等席で授業受けさせてもろうて。

良うできるけえじゃろうちゅうて他のお母さん方から褒められたんよ。」

何たる素敵な勘違い!

そして、本当のことを言わないまま、今に至りますw

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2006年11月27日 (月)

おまえのかあちゃん で~べ~そ♪

「The Way We Were」シリーズ第17話は、小1の時のお話です。

小1のときの一番の悪友は、間違いなく同じクラスのしんちゃんでした。

しんちゃんは、我ら4人グループのリーダー的存在でした。

いつも、イタズラや新しい遊びはしんちゃんがやり始め、他の3人はそれに加わるといった関係でした。

ただ、ガキ大将といった風ではなく、どちらかと言えば一匹狼的な雰囲気で、クラスのメインのグループとは一線を画しており、そのしんちゃんに他の3人が勝手に引っ付いてるといった感じでした。

そんなしんちゃんの家に、どうしてだったか、私だけ一人で泊まりに行くことになりました。

親戚の家以外にたった一人で泊まりに行くのは、初めての経験でした。

不安でいっぱいでしたが、密かな楽しみもありました。

しんちゃんのお母さんは、おませな私が思うにクラス一の美人かあちゃんでした。

しんちゃん家はお世辞にも裕福とは言えず、古びた借家に住んでましたが、お母さんは、どこか上品な色気を持ち合わせた美しい女性でした。

夕食後、しんちゃんと、しんちゃんの弟、妹と4人でお風呂に入っていると、突然そのお母さんが、素っ裸で入って来ました。

驚いた私は、思わず先に上がってしまいました。

風呂から上がって、子供たち4人で遊んでいたんですが、理由は忘れてしまいましたが、しんちゃんと言い合いになってしまいました。

しんちゃんが言いました。

「ば~か か~ば ちんどんや おまえのかあちゃん で~べ~そ♪」

私も言い返しました。

「ば~か か~ば ちんどんや おまえのかあちゃん で~べ~そ♪」

その瞬間、突然しんちゃんが踵を返し、子供部屋から出て台所の方に向かいながら叫びました。

「お母さ~ん、さざまる君がお母さんのことでべそってゆうた。」

私は、しまったぁ!

と思い、弁解の言葉を探しながら、慌ててしんちゃんの後を追っかけて行きました。

すると、しんちゃんのお母さんは笑いながら言いました。

「私しゃあでべそじゃないよ。 さっき、お風呂で見たでしょう。 もう一辺見る?」

私「い、いや。 ごめんなさい。」

今思えば、憧れの女性に嫌われたくないと思って必死になった、初めての出来事だったかもしれません。

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2006年11月18日 (土)

いたずらあまんじゃく

「The Way We Were」シリーズ第16話は、七五三にまつわる思い出です。

私が5歳のときは、姉が7歳、弟が3歳となり、3人揃っての七五三でした。

私たち兄弟3人は、母親に連れられてお宮参りをしました。

父親は仕事で、お宮参りには来れなかったんですが、仕事の帰りに、絵本を買って来てくれました。

姉には「かたあしだちょうのエルフ」、弟には「これなあに」そして私には「いたずらあまんじゃく」というタイトルの絵本でした。

3歳になって、「これ何? これ何? これは?」と、いろんな事に興味を持ち始めていた弟には「これなあに」と言う絵本。

女の癖に男まさりで、根性だけは人一倍持ち合わせていた姉には勇敢なだちょうのお話。

いたずら好きで、人と反対のことを言ったりやったりしたがるひねくれ者の私には、天邪鬼のお話。

仕事ばかりで、あまり子供たちに構うことの少ない父でした。

そんな父が、子供たちの特性に合わせた絵本を選んでくれたのかなと思うこともできますが、単にそれぞれの年齢に合わせた絵本を買って来ただけなのかもしれません。

いずれにしろ、私は、「絵本の主人公、あまんじゃくの振り見て我が振り直す」どころか、天気を思い通りに操れるあまんじゃくを羨ましく思うと同時に、自分の仲間を見つけた気がして、むしろ安心して、「いたずらあまんじゃく」ぶりに拍車がかかって行くのでした。

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2006年11月13日 (月)

お袋さん、そりゃないぜ!

「The Way We Were」シリーズ第15話は、幼少期の母親のしつけに関する思い出です。

とにかく、母親からは良く頬を叩かれました。

いわゆるびんたってやつです。

当然、悪い事をしたときだけです。

1度目は口で叱られて

「もうしません。。」

と約束をさせられるんですが、にも拘わらず、同じ悪さをした場合には手が出ます。

それが、同じように悪さをしても、小学5年生からはぱったりと叩かれなくなりました。

大人になって振り返ったときに、

教育方針として、成長したら口で諭すようにしようと決めてたのかなぁ。

と考え、いつか母親に聞いてみようと思ったこともありましたが、永らく、そう思った事すら忘れてました。

それが、昨年、寝たきりのため母親に身の回りの世話をしてもらっていたときに、ふと思い出したので聞いてみました。

「小さい頃、悪さしては叩かれて育てられたけど、5年生になったときから急に叩かれんようになったよねぇ。 もともとそのように決めてたん?」

すると驚いたことに母親が言いました。

「はぁ? 私は子供を叩いたりしたことは無いよ!」

え”ーーーーーーーーーーーーーーーっ!?

母「1回だけ、さざ吉(弟)が高校の頃にぐれかけたとき、情けのうて頬を張ってやったことはあるけど、そのときだけじゃと思うよ。」

私「そんなアホな。 わしは毎日のように叩かれた記憶しか無いくらいやのに。 そりゃないで!」

私は、母に厳しく育てられた事を感謝し、誇りに思って来たんですが、あんだけ散々叩いといて憶えてないとは・・・。

何と言っていいか、「とほほ。。。」って感じですわ。

随分しばらくしてから、

言い訳がましく母が言いました。

「段々思い出してきた。 そういやあ、あんたは悪さばっかしよったけえ・・・。 

じゃろう?

私は二十歳でお父さんのとこに嫁いで来てすぐにさざみ(姉)が産まれて、気がついたら3人の子の親になっとって、生活するだけで必死やったけえ、あの頃の記憶があんまし無いんよね。」

まあ、かく言う私とて、寝たきりにならなければ、こんなにガキの頃のことを思い出すこともなかった訳で、お袋が急に思い出せないのも仕方ないかと思い直しました。

また、いつだかテレビで、女優の高畑淳子さんが、

「舞台女優をこなしながら女手一つで子供を育てたんだけど、毎日必死で、どうやって育てたか、あんまり憶えてないのよ。」

な~んてことをおっしゃってたのを思い出しました。

案外、そんなもんかもしれませんね。

と納得することにしました。

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2006年11月 7日 (火)

動物園にて

「The Way We Were」シリーズ第14話は、小3の頃の思い出です。

小学校の裏門を出たところの道路を渡ると高校がありました。

その高校の校庭を横切って裏門から出たところに、動物園がありました。

小3になると、校区内なら自転車で乗り回していい権利が手に入ったので、放課後、学校から帰るとすぐに自転車に乗って動物園に行き、クラスの友達と遊んでました。

その動物園は市営で、市内の小学生は、ただで入場できたんです。

何をして遊ぶかというと、動物を見るのはたま~にで、ほとんどはオブジェとして置いてあったD-51(SL)に乗って遊んでました。

D-51の屋根(?)の上を、鬼ごっこのような事をしてみたり、最後尾から先頭まで競争したりと、走り回ってました。

D-51の上はいろんな突起物があって、とりわけ屋根の上の障害物競争とでも言いましょうか、スリル満点の度胸試しも兼ねてたんです。

ある日(私たちの仲間はいなっかた日ですが)、別のクラスの子がそのD-51から落ちて、頭がパックリ割れる重傷を負うといった事件が発生し、D-51で遊ぶことは禁止になってしまいました。

ちなみに、動物園の中では、サル山のコーナーと、キリンを眺めてるのが好きでした。

ただ、どの動物を見ても、野性の王国(当時のテレビ番組)で見るような大平原を、自由に走り回らせてあげたいという思いがつきまとってました。

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2006年11月 2日 (木)

大岡裁きとは違うよ

「The Way We Were」シリーズ第13話、幼稚園の頃のお話です。

家の近所で、友達3人と遊んでいると、1円玉が1枚落ちているのを見つけました。

「お金を拾ったらお巡りさんに届けなさい」と幼稚園で教えられてたので、3人とも迷わず、すぐ近くにあった交番に持って行きました。

ちっぽけな交番で中が狭いため、2人を外で待たせておいて、私が代表で中に入りました。

私「お巡りさん、1円拾ったよ。」

お巡りさん「良ぅ届けてくれたのぉ。 偉い偉い。 その気持ちが嬉しいけぇ、今回は君にあげるわ。」

思わぬお巡りさんの言葉に戸惑いながらも、

私「外にあと2人おるんやけど・・・。」

すると、お巡りさんは、自分の財布から1円玉2枚を出して、外で待っていた2人に渡してくれました。

家に帰って、今日の出来事を母親に言うと、

母「そりゃあ、お巡りさんも災難じゃったね。 でも、ええことしたね。」

私は、いい事をしようとしたはずなのに、本当にいい事をしたのか良くわからなくなり、また、子供だからとバカにされたような気持ちも混ざり、複雑な気持ちで1円玉を握り締めてました。

今思えば、お巡りさんは、純粋に幼い気持ちが嬉しかったからそうしたのか、単に一円で正規の手続きをするのが面倒だったからなのかはわかりませんが、紛失届け手続きのふりでもいいからして欲しかったですね。

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2006年10月28日 (土)

れんげ畑のある風景

「The Way We Were」シリーズ第12話は、2歳から小3の終わりまで暮らしていた社宅アパート周辺についての思い出です。

アパートの北側に棚田がありました。

春になるとその棚田一面にれんげが咲き乱れます。

そのれんげ畑でライダーごっこやウルトラマンごっこをしながら転がり回るのが好きでした。

れんげの蜜の味は、今でもハッキリと覚えてます。

アパートとれんげ畑の間には狭い斜面があり、そこにはツクシやゼンマイやヨモギが咲いていました。

ツクシやゼンマイは、湯がいて醤油で食べるとおいしかったですね。

れんげ畑の向こうには、父の会社が借り上げた畑があり、社宅の希望者に無料で貸し出されてました。

小学生になったとき、私もその1区画を父から分けてもらい、最初はとうもろこしを育てました。

その後、さらに区画を増やしてもらい、とまと、きゅうり、なすなどを植えました。

鍬で耕す重労働を終えると、後はスクスクと成長して行く苗を見るのが楽しみで、喜んで水や肥料をやりに行ってました。

収穫して母親に感謝されながら家族みんなで食べた味は残念ながら忘れてしまいましたが、多分おいしかったはずです。

せっかく、父に教えてもらった野菜の育て方も、今ではすっかり忘れてしまいました><

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2006年9月30日 (土)

授業抜出し大作戦!

「The Way We Were」シリーズ第11話は、小1の時の思い出です。

学校では、ブランコを思い切り漕いで前方に飛び出し、どこまで飛べるかを競う遊びが流行ってた時期がありました。

お昼休みだけでなく、2時間目と3時間目の少し長めの休み時間(15分くらいだったでしょうか)にもやってました。

ただ、他のクラスでも同じように流行ってるので、限られたブランコをいち早く取ろうと、2時間目の授業が終わり次第、ダッシュでブランコまで駆けてました。

ある日、2時間目の授業が終わる5分くらい前、先生が黒板に向かって何か書き始めたときでした。

私と同じく一番後ろの席に座っていた悪友のしんちゃんが、しゃがんだ恰好のまま私の席まで来て、ひそひそ声で言いました。

「今からもう行こうでや。」

昨日は隣のクラスに先を越され、苦い思いをしていたので、迷わずしんちゃんの誘いに乗りました。

開きっ放しになってた後ろの出口から、2人で素早く抜出し、ブランコをしに行きました。

先生は、けっこう長く黒板に向かっていたようで、気づかれずに済んだようです。

ブランコを漕ぎながら、しんちゃんが言いました。

「こりゃあええのぉ。 明日もやろうで!」

翌日、2時間目は国語の授業でした。

先生が黒板に向かったとき、しんちゃんが目配せしてきて、出口の方へ向かいました。

でも、昨日と違ったのは、それが授業が始まってまだ20分しか経っていない頃だということです。

「しんちゃん、そりゃあなんぼなんでも早過ぎるやろう。」

と思いましたが、しんちゃんは、構わず出口を出るところまで行ってたので、慌てて後を追いました。

ブランコを漕ぎ始めてすぐに、しんちゃんが、

「あっ!」

と言って3階の教室の方を見たので、私も目をやると、教室の窓から、担任のS先生とクラスのみんながこっちを見ているではないですか。

先生が叫びました。

「すぐに戻ってらっしゃい!」

2時間目の残り時間を床に正座して受けさせられ、さらに放課後には1時間ばかりの正座&国語の教科書の音読の刑が待ってました。

「あさ、あさ、あかるいあさ。

山がひかる。 川がひかる。

おはよう、おはよう、さあいこう。

みんななかよし、さあいこう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

けっきょく、次の日から、私としんちゃんの行動はクラスの全員から見張られることになり、授業抜出し大作戦は、2回だけで終わってしまいました。

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2006年9月23日 (土)

姉弟ゲンカ

「The Way We Were」シリーズ第10話は、姉弟ゲンカの思い出です。

姉とのケンカは、いつも私が負けてしまいます。

ルールは、父親が勝手に決めてました。

「先に泣いた方が負け」だと。

弟とのケンカと違って、決まって口ゲンカです。

姉の口からは、よくもまあ次から次へと私が気にしていることが飛び出したものです。

私は、最初のうちは必死で言い返すんですが、すぐに言葉に詰まって、悔しくて泣いてしまいます。

姉にとっては、ケンカというよりも、からかってただけなのかもしれませんが・・・。

あるとき、そんな私に腹を立てた父親が姉のことを後ろから羽交い絞めにして、泣きじゃくっている私に向かって言いました。

「いつもいつも、女に負けてビィビィ泣きやがって、わしが抑えといてやるけぇ、殴れ! 早う殴れ!」

私は、どうしていいかわからず、ただただ泣くばかりでした。

ケンカで1度も姉に勝てない自分が情けなく、腹立たしい気持ちを抱え続けてきた私でしたが、意外にも、そのことをきっかけに、気づいたんです。

「女を殴れるわけ無いやん!」

無意識のうちに姉には手を出せないでいた、実は恰好いい自分に気づきました。

恐らく、仮面ライダーやウルトラマンを通じて、弱い者イジメは卑怯者のすることとか、男は女を守ってやるものと言った事が、当たり前のこととして刷り込まれていたんだと思います。

翌日から、姉のからかいがアホらしく思えるようになり、あまり腹も立たなくなりました。

バカ姉弟 (1)     ヤンマガKCデラックス

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2006年9月16日 (土)

男子デビュー

「The Way We Were」シリーズ第9話は、小1の頃のお話です。

私が住んでいた団地では、幼稚園の頃は男女一緒に遊んでいるのですが、小学校に上がると、男子は男子、女子は女子で別れて遊ぶようになります。

男子には、5年か6年にリーダー的存在のガキ大将がいて、野球やサッカー、ろくむしや秘密基地などの遊びを教えてもらいます。

私は幼稚園までは、2歳上の姉について、姉の友人たちと遊んでもらってたんですが、小学校入学とともに男子デビューをすることになりました。

2786569250_1 初日は、5年生のガキ大将が迎えに来てくれたと思います。

その日は、広場で野球をやるからということで、父に買ってもらったグローブと木のバットを持って、ガキ大将について行きました。

軽くキャッチボールをしたまでは良かったんですが、いよいよバッティングをやらせてもらうときが来ました。

最初に、同級生のけいちゃんが打席に入りました。

いきなり初球からバットにあたり、5球ばかり投げてもらった球をことごとく前に飛ばしました。

上級生たちは、初めてなのにバットに当てた事に驚き、賞賛の声を上げました。

次は私です。

「よし、けいちゃんよりもっと遠くへ飛ばすぞ!」

と意気込んで打席に入ったんですが、バットを振るどころか、

怖いんです。

上級生が上手投げで投げてくるボールが・・・。

怖くて、目をつぶって身体が勝手に逃げてしまうんです。

ピッチャーが少し前から軽めに投げてくれました。

今度は逃げることもなく、バットも振れたんですが、どうしても目をつぶってしまうんです。

ピッチャーは投げるたびに前に来て、とうとうトスバッティングのように下から投げてくれてようやく目を開けてバットを振ることができました。

2786174335_1 でも、バットには当たりません。

何度振っても当たらないんです。

「こんなビビリ初めて見たでよ。」

心無い上級生のヤジが飛びます。

でも、腹も立ちません。

自分でも、自分がビビリだという事を初めて知ったショックが大き過ぎて・・・。

ついこの前までは、野山を駆け回ったり、メンコや独楽回しなどは、私が率先してけいちゃんを引っ張ってやっていた立場でしたから・・・。

それから2~3日は、野球に誘われて行ってたんですが、私が打席に入るときだけ、下手投げで投げられ、しかもろくにバットに当たらない屈辱に耐えかねて、4日目くらいからは遊びに行かなくなりました。

その後、4年生で阪神タイガースに惹かれるまでは、大の野球嫌いになってしまいます。

男子の輪の中で遊べないということは、ずっと楽しみにしていた秘密基地にも連れて行ってもらえないということで、そのことが一番残念でした。

そうして、学校へは行っても、日曜日などは外に出るのが嫌で、2年間に渡るサンデー引きこもり生活が続くことになります。

間もなく、2つ下の弟が幼稚園生の癖に、持ち前の社交性と運動神経を活かして異例の早さで男子デビューを果たし、野球でヒットを打った話や、秘密基地に行った話を聞かされると、私はいじけて、ますますサンデー引きこもりをエスカレートさせて行きます。

その分、学校でのやんちゃぶりは留まるところを知りませんでした。

3年生になり、校区内を自転車で乗り回せるようになると、クラスの同級生のところに出かけて行って、遊ぶようになりました。

そういう訳で、私は、団地の男子の顔と名前をほとんど思い出せません。。。

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2006年9月11日 (月)

愉快な仲間たち

「The Way We Were」シリーズ第8話です。

私たちの日常に彩りを添えてくれた昆虫(一部動物)たちを、思いつくままに挙げてみました。

アメンボ、タガメ、ミズスマシ、ゲンゴロウ、ヤゴ、オタマジャクシ、メダカ、タニシ、カワニナ

カ、ブヨ、アブ、ガガンボ、クマンバチ、スズメバチ、アシナガバチ、ミツバチ

オニヤンマ、シオカラトンボ、イトトンボ、アカトンボ、ギンヤンマ、ウスバカゲロウ

Summer_3 ミンミンゼミ、アブラゼミ、ツクツクホウシ、クマゼミ

ゲンジボタル、ヘイケボタル

モンシロチョウ、モンキチョウ、キアゲハ、カラスアゲハ、ムラサキシジミ、ベニシジミ

カマキリ、コガネムシ、カナブン

ダンゴムシ、アオムシ、ミミズ、クモ、ナメクジ

カブトムシ、オオクワガタ、ミヤマクワガタ、コクワガタ

ゴマダラカミキリ、シロスジカミキリ

エンマコオロギ、スズムシ、クツワムシ、キリギリス、マツムシ

ショウリョウバッタ、トノサマバッタ、オンブバッタ

ナナホシテントウ、ハサミムシ、ゲジゲジ、ムカデ、カタツムリ

アマガエル、ヒキガエル、トノサマガエル、ショクヨウガエル、ウシガエル

イモリ、ヤモリ、シマヘビ、アオダイショウ、クサガメ

触るのが気持ち悪くなったのはいつからでしょう?

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2006年9月 6日 (水)

ほろ苦いマーブルチョコ

「The Way We Were」シリーズ第7話は、小2の時のお話です。

同じ団地の1学年上に、寺西君という危険な香りのする少年がいました。

スポーツ万能で、野球やサッカーはもちろん、メンコやビー玉などの遊びに関しても、3年生の癖に、5、6年生と対等に渡り合える実力でした。

しかし、みんなから慕われるタイプではなく、どちらかというと浮いた存在でした。

それは、寺西君が、生き物に対して、周りが引くくらい残虐なところがあるからです。

子供というのは、生き物に愛着を持つ反面、ときに残酷な面もありますが、寺西君の場合は、エスカレートしてくると手が付けられなくなります。

今でも強烈に覚えているのは、寺西君が1mくらいのヘビとアマガエルを捕まえてきて、アマガエルを生きたまま無理やりヘビの口から棒切れで押し入れたことです。

それから暫く待って、どれくらい溶けたかを調べようと、膨らんでるヘビのお腹の前後を、鎌でぶった切ったのです。

ある日、そんな寺西君が団地の倉庫の前に一人で座ってる場面に出くわしました。

寺西君は言いました。

「さざまるぅ、ええ物やるけぇこっち来いや。」

私が近づくと、

「これやるわ」

と言って、マーブルチョコを手の平の上に数粒ばら撒きながら、

「そこのスーパーで取ってきたんど! ちょろいのぉ。 ただじゃけぇうまいど!」

私は、万引きなどという悪いことをする人が身近にいたことに驚くとともに、まさに今私の手のひらにあるものが万引きされたものであると知り、一瞬躊躇しました。

Autumn_kashi しかし、今更返すわけにも行かず、しかも相手はあの寺西君です。

もし私が食べなければ、寺西君からすると、人に言われる危険性があることになるので、どんな脅しをしてくるかわかりません。

けっきょく私は、一瞬躊躇したあと、一気に全部食べて、お礼まで言ってしまいました。

その頃の私は、悪い事をしたら必ず母親に言い、説教&びんたを喰らってました。

恐らく、懺悔して罰を受けてスッキリするという効果を子供なりに期待して、わざわざ言っていたのではないかと思います。

家に帰ると今回の件も母親に言いました。

しかし、事が事だっただけに、母親は父親に言ってしまいました。

話を聞いた父は私に問いただしました。

「お前はその菓子を、食べた後で万引きしたもんとわかったんか?

それとも、万引きしたものと知ってて食べたんか、どっちや?」

父は、母と違って温厚で、子供に手を上げることはもまず無いんですが、ここぞと言うときには威厳のある人でした。

そんな父の、いつになく迫力のある聞き方に、私は思わず、

「食べた後で寺西君が万引きしたって言うた。」

と嘘をついてしまいました。

恐らくそれが、初めて両親に嘘をついた出来事です。

それから数日は、胸の苦しい、スッキリしない気持ちを抱えながら過ごしました。

けっきょく両親は、寺西君本人や寺西君の両親には何も言わず、仲が良かったスーパーの店長に、気をつけるように言ったのではなかったかと記憶しています。

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2006年8月28日 (月)

兄弟ゲンカ

「The Way We Were」シリーズ第6話は、兄弟ゲンカのお話です。

私は、幼少の頃、2つ年下の弟とよくケンカをしました。

男同士なので、口より手が先に出てしまいます。

素手でつかみ合い、殴り合うといった形になります。

武器を使うことは卑怯者のすることだと、親父から堅く禁じられていました。

それでも、両親が出かけて弟と2人で留守番しているときにケンカが始まると、ヒートアップして、ついつい何かを掴んでしまいます。

主には、1mの長い竹のものさしだったり、ハエたたきだったり、皮のベルトだったりしました。

2782163434_2 皮のベルトをお互いが手にしたときは、金具がついてない方でたたき合うんですが、エスカレートしてくると、金具がついてる方を相手に向けて、

「ホンマにこっちでたたくど!」

「オレもど!」

などと言い合ったまま、睨み合いが続きます。

けっきょく、金具の方でたたいたら大変なことになるのがわかってるし、自分がたたくと、相手が逆上して、何倍もたたき返されることも想像できるので、実際にたたき合うことなく終わるんですが、そういうときに、どうやってケンカが終わっていたのかは残念ながら忘れてしまいました。

また、お互いがフォークを掴んだまま睨み合うということもあったと思いますが、

ある日、親戚のおばちゃんが、

「この前、うちの息子たちが、包丁を掴んで睨み合ってたんでビックリしたけど、ぶん殴って止めてやったわ。 男兄弟のケンカには困ったもんよ。」

と話しているのを聞いて、なぜだかいとこ兄弟に負けた気がしました。

ケンカの真っ最中は弟が憎らしくて仕方ないのですが、何時間かすると、完全に忘れて仲良く遊んでしまうから不思議なものですね。

弟と取っ組み合いのケンカをしなくなったのは、いつからでしょうか?

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2006年8月23日 (水)

びんた先生

「The Way We Were」シリーズ第5話は、小3の時の担任0先生の思い出です。

O先生は、20代の男の先生でした。

3年生の担任がO先生に決まったとき、母親はとても喜びました。

「ちょうどええわね。 一年間びんた先生に鍛えてもらいなさい。」

そうです。

O先生は、教え子にすぐびんたを食らわすため、みんなから「びんた先生」という愛称で親しまれてる熱血先生でした。

近所のおばちゃんからも、

「良かったねぇ、さざまるちゃん、あの先生に1年鍛えられて男にしてもらいなさい。」

と言われ、単純な私は、人として成長できる気がして、素直に喜びました。

1237433101 O先生は、新学期早々、クラスのみんなの前で、提言しました。

「今から、この1年間みんなに守ってもらいたい決まりごとを言う。」

そう言うと、7ヶ条とでもいうべきものを黒板に貼り出しました。

内容は、

「廊下は走らない! 宿題を忘れない! 忘れ物をしない! etc.」

私の苦手なことばかりでした。

先生「みんな、もう3年生じゃから、これぐらい守れるよな!」

生徒「は~い!」

先生「じゃあ、守れなかったらその度にびんたをするけどいいな!」

生徒「・・・・・。」

先生「守れるんならええじゃろう。 どうしても嫌な人は手を上げて!」

生徒「・・・・・。」

先生「よし、それじゃあ、みんなよろしく!」

私は、先生に言われる前から、3年生になったら今度こそちゃんとしようと思っていたので、これぐらい守ってやるわい。

と強気でした。

しかし、私の意気込みはいつも最初だけでした。

1年後には、びんた回数ベスト5にランクされてしまいました。

びんたを受けた回数を紙に書いて壁に貼り出し、正の字を書いてたので、良く覚えてます。

それを参観日にご父兄の方々にも見てもらってました。

一番多かったのは、なんと女子のさっちゃんで、130回ぐらいだったと思います。

O先生のびんたは、容赦なく、とても痛かったんですが、反面、明るく、暖かく、みんなの人気者でした。

先生と別れるのが寂しくて、春休みに何人かで、ご自宅まで遊びに行ったくらいですから。

悪い事をしたら厳しく叱ってくれ、いい事をしたら手放しで褒めてくれるというところが、生徒としても、心身ともに安心して先生に委ねられたんだと思います。

当然、父兄の協力もあってのことですが・・・。

今では考えられないですね。

このびんた先生は極端な例ですし、学校教育における体罰について、私自身、手放しで肯定している訳ではありませんが、体罰に対する世の中の評価が急激に変わっり、戸惑った記憶があります。

いつからでしょう?

私が高校の頃までは、当たり前のように叩かれてました。

ところが、就職して3年目のときに、小学校教師になった幼馴染が、

「子供を叩いてやることができん!」

と嘆いていたことから考えると、その辺りの7年間で一気に変わったようです。

恐らく、戸塚ヨットスクール事件からじゃないかと思います。

果たしてびんた先生は、この時代の変化に対して、どのように自分の教育方針と折り合いをつけながら教師生活を送られたのでしょうか?

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2006年8月18日 (金)

屋上のある風景

「The Way We Were」シリーズ第4話は、2歳から小3の終わりまで暮らしていた社宅アパートについての思い出です。

私が幼少の頃をを過ごしたのは、父親の会社の社宅アパートでした。

4号棟まである団地の2号棟の4階に住んでました。

1082800086 4階の上には屋上があり、誰もがいつでも自由に出入りできるようになってました。

団地の敷地内には公園や広場があり、また敷地外には、田んぼ、畑、小川、山と、遊ぶ場所には事欠かなかったのですが、屋上もまた恰好の遊び場でした。

キャッチボール、サッカーのパス練習、紙ヒコーキ、めんこ、独楽、凧揚げ、雪合戦etc.

女子はゴム跳びなんかもやってました。

私は、そんな屋上で、ただただ景色を眺めたり、雲を観察したり、星空を眺めたりすることもまた好きでした。

3方を山で囲まれてるのですが、南方だけが切り開かれていて、そこから遥か遠くの町が見えるんです。

デパートの屋上遊園地の観覧車が見え、日曜日にはアドバルーンが揺れ、飛行船が浮かびます。

町の向こうには父の働くコンビナートが見え、その向こうには海が光ってます。

双眼鏡で見ると、大型タンカーが行き交う様子がハッキリと見えます。

そんな、穏やかな風が吹いている屋上が、私のお気に入りの場所の1つでした。

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2006年8月13日 (日)

最初は「可愛そう」と思ってしまった。

「The Way We Were」シリーズ第3話は、小学1年生の頃のお話です。

小学校まで子供の足で20分くらいの所に住んでました。

往きはもちろん、正規の通学路を通って学校まで行っていたのですが、帰りは、道草を重ねた末に見出した、お気に入りの裏道を通って1時間くらいかけて帰ることがほとんどでした。

この裏道は、田んぼのあぜ道を通ったり、小川を飛び石を飛んで渡ったり、小高い丘を越えたりと、悪ガキどもにはたまらない魅力のあるルートでした。

976165563 ある日、裏道から帰っていると、悪ガキ1号が言いました。

「この先に、お化けを飼っとる家があるんど! 行ってみようで!」

悪ガキ1号に連れられて、あぜ道から少し山の方に向かっている砂利道を進んだところに大きな古ぼけた農家がありました。

庭に誰もいないことを確認し、恐る恐る家の裏に回ると、そこには古びた蔵がありました。

悪ガキ1号が声を潜めて蔵に向かって呼びかけました。

「お~い。」

そのときです!

蔵に開けられた小さな窓から突然、何者かが顔をのぞかせ、窓にはめられた鉄格子を両手で掴みながら、

「うぉ~!、うぉ~!」

と何か叫び始めたのです。

私は、心臓が止まりそうになりながら、他の悪ガキたちと全力疾走でその場から走り去りました。

思えばそれが、障害を持っている方の存在を意識した最初の出来事でした。

ぼさぼさの髪でよだれを垂らしながら、鉄格子を掴んで叫んでいる男の人の顔がしばらく頭から離れませんでした。

目だけが異様にギラついていたのが印象的でした。

家に帰って落ち着いた頃、なぜか自分のやったことに胸が痛みました。

次の日学校に行って悪ガキどもに出会っても、誰も昨日の話はしませんでした。

そして、その日からしばらくは、誰からともなく正規の通学路を帰るようになりました。

みんな口には出しませんでしたが、同じように罪悪感と同情が入り混じった、それまでに経験したことのないような気持ちになっていたと思います。

さて、今の世の中、昔の日本は良かったというような、過去を懐かしむ声が目立つようになった気がしますが、どうでしょう?

確かに悪くなった面も多々ありますが、反面良くなった面もあります。

障害の種類にもよりますし、まだまだ全然満足してる訳ではありませんが、障害を抱える者にとって、少なくとも40年前よりはましになってると思います。

先人の方々の努力の賜物でしょう。

少なくとも私は、40年前の社会で今の病気を抱えていたらと想像するとゾッとします。

福祉サービスや雇用に関することもさることながら、例えば、当時はネットもコンビニも無かったのですから。

この2つにも功と罪があるでしょうが、私は功の面を思い切り享受させて頂いてます。

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2006年8月 9日 (水)

骨折り損のくたびれもうけ

「The Way We Were」シリーズ第2話は、小2の時のお話です。

私は、2歳から小3の終わりまで、父の社宅アパートに住んでました。

4階建てのものが4号棟まであり、各棟にはフロアごとに6世帯が暮らしており、私の家族は2号棟の4階に住んでいました。

そして、4階の上には屋上があり、階段を使って、誰でも自由に出入りできるようになってました。

488224979 ある日、私は2号棟の敷地内を一人で歩いていて、突然、ドキドキ、ワクワクすることを思いつきました。

「雨どいをつたって屋上まで登ったら格好ええど。」

直径15cmくらいだったでしょうか、屋上から地上まで、アパートの外壁に這わせてある雨どいに、両腕と太ももで締め付けるようにして飛びついて見ました。

「太めの登り棒と思えば大したことないわぃ。」

周りに誰もいないことを確認すると、一気に登り始めました。

幸い、私の両親も出かけてて留守にしてました。

3階あたりまで一気に登ったところで、休憩がてら、ついつい下を見てしまいました。

予想以上に高いところにいる自分に気づくと、急に手足がすくんで動けなくなりました。

「こりゃあ困った。 ここでやめたら明日友達に自慢できんど。」

と考えてたら突然、雨どいからすぐのところに住んでいる佐藤さん家の窓が開き、そこのおばちゃんがビックリして言いました。

「キャッ! あんたぁそんなとこで何しよるんかね。 危ないじゃろ~が。」

私「いや、ちょっと屋上まで登ろうと思って。」

おばちゃん「アホゥ、屋上なら階段があろうに。 まあええ、こっから入りぃ。」

佐藤家とは家族同士あまり付き合いが無く、挨拶を交わす程度の仲だったので、私は遠慮がちに、

「いやぁ、急にお邪魔したら悪いやろ~。」

おばちゃん「私だって窓から客を入れるんは初めてやけど、しょうがないじゃろう。」

私「じゃあ、うちのお母さんには言わんでくれる?」

おばちゃん「誰にも言わんから、早よう入りんさい。」

私は、これでこの話を友達にしたときの言い訳ができたと内心喜びました。

3階で運悪く、佐藤のおばちゃんに見つかって、無理矢理やめさせられたことにすれば格好はつくと。

さらに、母親にも知られずに済むと。

そこの窓には、転落防止のため、鉄柵がついていたので、まず左手から、次に左足、とゆっくりと鉄柵に移動しました。

そして、その鉄柵を乗り越えて、窓からお邪魔しました。

おばちゃんは、お菓子を食べさせてくれながら、優しく言いました。

「ほんま、男の子は無茶苦茶するねぇ。 

私は、心臓が飛び出るかと思ったよ。 

誰にも言わんからその代わり、あんたも友達に自慢しちゃあいけんよ。 

みんなが真似したら危ないけぇ。」

あぁ、それじゃあ意味無いやん!

と思いましたが、母親に言われるのが怖くて、友達には言えませんでした。

けっきょくこの出来事は、私とおばちゃんだけの秘密となってしまいました。

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2006年8月 4日 (金)

ベテラン先生の涙

「The Way We Were」シリーズの第1話は、小1の時の担任S先生との思い出です。

既に50を超えた大ベテランの女の先生でした。

それは、1年生が終わろうとする終業式の日でした。

終業式が無事終わり、このままクラス替えで別れるのが寂しかったのか、クラスの仲間10人くらいで、校門のすぐ傍にあるジャングルジムで遊ぶことにしました。

確か仮面ライダーごっこだったと思いますが、回っているジャングルジムの上から「トォー!」とか言いながらライダーキックの形を作って飛び降りたりしてました。

1986051869 段々エスカレーとして、ジャングルジムだけでは飽き足らず、調子に乗って、私が校門の両端の石柱の上に上がった瞬間、S先生が鬼のような顔で現れました。

先生は、校門の上に上がったのは誰か問いただし、私だけだとわかると、私をお別れしたばかりの教室に連れて行き、床の上に正座をするように命じました。

この1年間、正座&説教には慣れっこになっていたので、

「これも今日が最後かぁ。 でもせめて、ライダーキックを決めた後に見つかればよかったなぁ」

などと、ある種の感慨と残念な思いとが入り混じった気持ちで正座しました。

いつも冷静に説教を始めるS先生が、このときに限って、感情を高ぶらせて語り始めました。

「いろいろなことを教えて頂く学校の、それも校門の上に乗るなんて、とんでもないことよ!

お父さんの頭の上に乗ったと同じことなの!

もっとわかり易く言うと、寝ているお父さんの頭を上から踏んずけたぐらい畏れ多いことなの!

そんなことができる?」

私はその姿を想像して、校門ってそんなに大事なものなんだと思いました。

先生は続けました。

「あんたにはほんと最後まで手を焼いたわぁ。

私は、叩くのは好かんけぇ、言葉で分かってもらおうと、この年まで誰一人教え子には手を上げたこと無かったけど、あんただけは叩くしかないんかもしれんね。」

と言うと、先生も正座をしたままぐいと近寄って来ました。

私は、母親がするように、頬を張られるのかと思い、目を閉じ、歯を食いしばったんですが、痛みが走ったのは、意外にも半ズボンのためにむき出しになった左のももでした。

先生は、

「この痛みを絶対に忘れなさんなよ! 

この私に手を上げさせたんやから忘れたら承知せんよ!

2年生になっても思い出しなさい!」

と言って、涙声で叩きながら叫び続けました。

はじめの3発目までは、めちゃくちゃ痛く、ももが腫れ上がったのですが、4発目からは次第に弱くなり、最後はなでる程度になりました。

それが、母親以外の人に叩かれた最初の出来事でした。

家に帰りながらも切ない気持ちがずっと続いており、

「2年生になったらちゃんとしよう。」

と心に誓いました。

でも、春休みの間にすっかり忘れてしまいました。

その後、中3までの間に、9人の担任の先生からご指導頂くことになるのですが、9人中8人から愛のムチを受けるような悪ガキであり続けるのでした。

S先生、ごめんなさい。

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2006年8月 2日 (水)

「The Way We Were」シリーズについて

昨年1年間は、首を中心とした左半身全体の筋収縮により、寝転んでいても身体がよじれてテレビもまともに見ていられない状態が続きました。

目が覚めてる間中、頭を寝床に右腕で押さえつけながら、再び疲れて眠るまで、ただただ時が過ぎて行くのを待っていると、不思議と昔のことがいろいろ思い出されました。

自分でも驚くほど鮮明に、幼少の頃の出来事が脳裏に蘇えってくるんです。

1つ思い出すと、記憶の糸を手繰るように、次々と思い出されました。

きっとまたすぐに忘れるであろう、取るに足らないつまらないことばかりなんですが・・・。

普通に生活していたら決して思い出されることの無かった些細な出来事の幾つかを、せっかくなので、「 The Way We Were.」というカテゴの中に気が向いたときにポツポツと書き留めておこうと思います。

とりあえず今日は、そのことだけ書いて終わりです。

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